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まやかしでできた真実


 室内に橙色の光が入り、煙草のヤニで黄ばんだ壁を一層染めていく。大の男が寝台に並んで座っている姿が、ひとつの陰としてかたどられて映っていた。
 しん、と静まり返った空間に会話はしばらくなくて、けれど重い沈黙ではなく心地よい静寂となっている。
 どれだけ長い時間、そうしていたのだろう。
 静寂を終わらせたのは、薄闇に動いた三好の方だった。
 此処はとても暖かい場所ですね。と、ベッドの拳一つ分だけ空いた距離を詰めることなく、隣に座る佐久間の手に己のそれを重ねた。窓の外に見える景色はとうに陽を落としていて、星が瞬いている。月も見える時刻にそんなことを言ったものだから、彼は少し困ったように眉を下げた。
 夏に近付くこの季節、寧ろ今は肌寒さを感じるほどだ。佐久間の顔が面白くて笑ってしまうと、途端に不機嫌そうに眉間に皺が寄る。この男は感情を露骨に表情に出してくれるから、いつだって三好を楽しませた。
「少し肌寒いくらいじゃないのか」
「そうですか? そうかもしれませんね」
 適当な相槌を打っていると思ったらしく呆れたようにため息をついている。三好のそんなところにはもう慣れているから、特に何かを言う気はないらしい。言ってくれてもいいのにと考えながら、佐久間の横顔を見つめた。
 男らしい精悍な顔つきと、太く短い眉。引き締められた唇。前を見据える瞳。
 時折三好は、この男の存在がひどく眩しく感じることがある。スパイは自らを目立たぬ者として個を消し、影としなければならない。しかし佐久間は違う。愚直なほど陸軍の教えを疑わなかったあの頃から変わっても、やはり彼の本質なのだろう。真っ直ぐなところは同じだった。
 佐久間は太陽のようだ。そしてその隣は柔らかな光が降り注ぐ陽だまり。太陽は万物を分け隔てなく照らし出す。迷うことなく伸ばされた手を取ってしまったのは、もしかしたら間違いだったのかもしれない。暖かくて、優しくて、だからこそ三好には眩しくて目を細めてしまう。
 佐久間の隣はスパイとして生きていくためには、いてはならない場所。そして絶対に居続けられない場所でもある。出会えば遅かれ早かれ必ず別れは訪れるものだが、養成所の学生でしかなく、いずれ此処を卒業する三好達にとって、遠くない未来であることは確かだった。
「あなたのことが大嫌いですよ」
 まるで先程の話の続きのように話し出せば、重ねたままの手がひくりと震えた。これは嘘だとわかっているはずなのに、身体が勝手に反応している。本当に隠し事ができない人だ。そんなところがとても―――。だからどうか、と、誰にでもなく願う。
 養成所を卒業し、正式にD機関の一員として働くようになれば、誰ひとりとして『三好』のことを思い出す者はいなくなるだろう。自分自身でさえもだ。所詮これも偽名であり語るのも偽の経歴ではあるが、たったひとつだけ、この場所には真実が残る。
 『三好』は確かに此処にいて、佐久間の隣で息をしていた。佐久間が生き続け、忘れないことこそが証となる。
「だから僕のことはさっさと忘れてくださいね」
「うん?」
 何を唐突に、とでも考えているのだろう。前を向いていた黒い双眸がこちらを向く。それを無視したまま続けた。
「あなたが忘れてくれないと、僕が此処にいた痕跡が残ってしまうんですよ」
 憶えていられたら迷惑なんです、と言外に言ったのに気付かぬほど馬鹿な男ではない。彼が生きている限り轍は残る。しかし答えを、本当は知っていた。
「忘れない」
 低く短い答えが想像と同じであることに、僅かながらに安堵した。柄にもなく緊張していたらしく、ほっと肩の力が抜けたことに気づいて心中で苦笑する。真っ直ぐ過ぎて、己の歪みを嫌でも意識してしまう。
 けれどそんなところが彼の長所であり短所でもあるから、今度は佐久間にもわかるように笑ってしまった。
「貴様、何が可笑しい」
「いいえ、佐久間さんらしいと思っただけです」
 静かに告げて肩を震わすのをやめ、竦めて首を横に振る。馬鹿にしたと勘違いをしている男を見つめた。彼の背後にあるのは古いせいでしみが転々と広がる、黄ばんだ壁だけだ。それも既に薄闇に紛れてしまっているが、毎日使っている部屋だ。しみのひとつひとつの場所を正確に言い当てられる自信がある。
「そのままでいてください」
 あなたは何も変わらなくていい。変わらないでいて欲しい。
 道しるべは必要ない。信じるものは自分が決める。三好はこれから幾度も変化するだろう。偽の名前、偽の経歴を与えられ、別人になりきって生きていく。
 時には足元が砂のように脆いと気付くこともあるかもしれない。だから佐久間だけは『佐久間』のままでいて欲しい。これから先も、ずっと。
「あなたは僕達と違って、とらわれてもいいんです」
 とらわれることを許されぬスパイとは違って、佐久間はとらわれてもいい。彼はスパイを選ばなかったから。
 居心地のよいこの場所は全て虚構で、すぐにでも壊れてしまうものだとしても。
 とらわれるということは、忘れないということでもある。
「……三好」
 忘れろと言ったり、忘れるなと言ったり。どちらなのだと聞きたいらしい。そんな顔をしている。
 とらわれることも、とらわれないことも、彼には選ぶ権利がある。自身とは相反する、本来なら一度として交わることのなかった場所にいる人。日陰の人間には眩しすぎる人。
「あなたが決めてください」
 D機関で得たことすべてを忘れ、今まで通り職業軍人として全うするか。
 忘れることを諦め、他とは違った考えを持ちながらひとり生きていくか。
「その権利が、佐久間さんには与えられているんですから」
「何かあったのか」
 真摯な瞳に射抜かれる。嗚呼やっぱり、自分には日陰がお似合いだ。そして彼には光がよく似合う。考え黙り込んだ佐久間に笑みを深めると、半身乗り出して彼の右太股に体重をかける。
 顔を上げた男の口唇に己のそれを掠め、驚いた顔を目に焼き付けた。
「大丈夫、まだ先の話です」
 嘘を吐いて、食堂に行っていますよと立ち上がり、この暖かい場所から抜け出す。何も難しく考える必要はない。
 考えなくてもこの頭はすぐに三好としての答えを導き出し、そして佐久間は佐久間としての答えを弾き出すのだから。
「貴様は忘れるのか」
 疑うことを覚えた男は、それでも三好には眩しすぎるほど美しい世界を信じている。
 扉の前で一度立ち止まり、ノブを握ったまま彼を見ずに答えた。
「忘れますよ、僕は。すぐにでも」
 三好が三好であったことすべてを忘れ、そして死ぬまで生きていく。それで十分だ。手を引けば古びた蝶番が鳴いて、外の光が入ってくる。
 その向こうへと足を進め、男を置いて言葉通り食堂へと向かった。同じように陰に生きることを決めた者達のところへ。
 三好はスパイとして生きていく。
 佐久間は軍人として生きていく。

 これはもう、誰にも抗えないたったひとつの現実だった。

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