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追憶のすゝめ


 煤けて、あまり綺麗とは言えない壁を見つめる。元が鳩舎だったのだからましといえばましなのだろうが。さきほどまで熱くて仕方のなかった身体は既に冷め、肩にかけるだけだったシャツにも腕を通す気になった。
 かち、とマッチで火をつけた音が聞こえて、顔を向けると事後の仮眠を終えた三好が寝台の縁に座り、足を組んで艶然と微笑む。
 その表情はいつも通り佐久間をからかうような笑みでいて、しなやかな指には煙草が挟まれていた。
 こんな時に三好が煙草を吸うのは珍しい。
 大抵あの男等がジョーカーゲームと呼ぶゲームをしているときに見かけるだけで、それ以外はあまり吸っている様子は見られなかったからだ。勿論、佐久間が参加しない、夜に出掛けているときにそうしている可能性は高いが。

「まあまあ良かったですよ」
 呟くような、あまり起伏のない話し方だが、平時からそうだから癖のようなものだろう。それさえカバーだと言われてしまえば、佐久間には何も言えなくなってしまうが。
 生白くなめらかな肩からずり落ちたシーツは腰にかかり、露出されていたはずの下半身を隠していた。そのあまり感情がこもっていない感想は、数時間前まで身体を重ねていたことに対してだろう。
 相変わらずな物言いに、呆れさえ出ない。
 赤すぎる唇に真白い口付き煙草が咥えられて、その赤が更に映えるのに知らず目を細めていた。
 何も変わらない、日常の断片だ。
 長く吐き出した煙は細くなり、やがて消えていくのがわかる。窓際に置いてある煙草の箱は大和のようだ。少し前まで愛飲していたのはカメリヤだったはずだが、趣向が変わったらしい。
 ほんの一週間ほど前、一人が“卒業”していった。その時に前触れなどひとつもなく、佐久間は勿論のこと他の訓練生に別れを告げないままに消えていく。姿が見えなくなって初めて卒業を悟り、二度と顔を合わせることがないことを知らされるのだ。現に、三好と同期の数人は既に“卒業”している。
 その時期は誰にも読めない。
「僕たちは卒業するとき、誰に報せることなくここから消えていくんです」
 三好が言ったのは、それを思い出してのことだったのだろうか。
 例によっていつもの無感動な声音で、紫煙を燻らせて。煙草の先からまっすぐに上へ煙が伸びている。
 佐久間は何かあったのかと勘ぐることもなく、知っているさ。と返していた。偽の経歴、偽の名前。本来の彼が煙草を吸っていたのか、それともそれさえ作られた性質なのかもわからない。本性を知らされる機会も権利も、与えられることはないのだろう。
 卒業試験に、この男ならば難なく合格するはずだ。
 無論彼がそれを不安に思っているわけではないことはわかっている。自尊心の塊のような男が、未来を憂えるわけがない。彼らにとっては今までの訓練やこれからの活動のすべては、人生を少しだけ楽しくするためのゲームに過ぎないのだ。
 だがこの養成所を卒業することは、小さからず彼らに変化を与えるということなのかもしれない。そのことを考えての台詞なのだと、佐久間はほんの数時間前まで信じて疑っていなかった。
 しかし、それが大きな勘違いだったと気付いたときには遅すぎる。
 次に目が覚めたときには、眠っていた痕跡すら残さずに彼自身の寝台から三好は消えていた。手のひらで触れてみても冷えきっているから、布団を抜け出てからもう随分と経っているのかもしれない。
 昨夜確かに腕に抱いていたはずの温もりの何もかもが、まるで夢や幻だったかのように失われていた。
 僕たちは卒業するとき、誰に報せることなくここから消えていくんです。
 三好の言葉が脳内でよみがえる。
 養成所を卒業するとき、誰かに別れを告げることはない。けれどあれは三好に出来る、最後の別れの言葉だったのだ。あの男はこれから死ぬまで、スパイとして生きていく。
 生きていることも何かがあって死んだことも、結城中佐以外に知ることはないのだろう。自身は、好いた者の死を悼む権利すら与えられていないのだ。
 ぎり、と、奥歯を噛んで歪みそうになる顔を耐えた。佐久間はD機関のスパイとしては生きていけない。
 死ぬな、殺すな、とらわれるな。この規律は守れない。
 駒として使い捨てられるのは御免だ―――軍人としてあってはならない考えを持ちながら、本名すら知らない男のせめてもの無事を願いながら生きていく。
 馬鹿げている。と、国のために死ねと教育されてきた他者には、一笑に付されることだろう。それでも一度生まれてしまった考えは消えることは無い。
 スパイでもなく、ただの軍人としてももういられない。

 これから想いを殺そうとし、思い出にとらわれながら、佐久間はひとり、真っ黒な孤独を生きていく。

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