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長い夜でもいつかは明ける


 陽光が大きな窓から入ってきて、整頓された寝室を照らしていく。それに背を向け二人の男が寝台に座っていた。
 ざあ、と、外の木々が大きく揺らされ、入ってきた風によって髪が踊る。
 佐久間は肩越しに外に目をやり、透き通る空に白い雲が流れていくさまを見詰めた。遠くの空は夜の色に染まりつつあるから、陽が落ちきるのはもう間もなくである。
 白く細い指が、つぅと剣胼胝のある佐久間の指のふちをなぞった。一般成人男性であることには変わりないが、三好のそれは軍人のものとは違い滑らかだ。こそばゆさにひくりと動かすと、すぐ横に座った青年が小さく笑って息を漏らす。
 視線を向ければ、薄く赤い唇が弧を描いていた。
 特別な意味もなく溜め息を吐いてみたら、彼にはそれで十分だったらしい。
「僕は佐久間さんのことを、すぐに忘れてみせますよ」
 感情の起伏が殆どない、けれど此方の出方を読めているとでも言いたげな口調は、普段とあまり変わらない。哀愁が漂うわけでもなく、事実を述べているだけなのだろう。
 三好を始めとしたこの養成学校にいる者たちは皆学生でしかなく、まだ誰も卒業していない。しかし一たびこの建物を出てスパイとして活動を始めてしまえば、別人として生きなければならない。ここで生活したことも、こうして今、佐久間と並んで座っていることも、全て捨てて。
 それは最初からわかっていたことだ。
「そうか。だが俺は忘れない」
 ならば返すべき言葉はやはり、佐久間にとっての真実しかない。糞真面目、馬鹿正直だと笑いたければ笑え。
 そう含ませて、けれど気持ちに偽りはない。
 三好は、外国の者を思わせる仕草で肩を上げてみせる。
「そうですか。どうぞご自由に」
 重ねていた手が離れ、からからと音を立てて窓を閉めていた。気付けば陽は沈み、風が冷えてきたから寒かったのかもしれない。
 空を橙色に染め、地平に溶けていこうとする陽光が、部屋をその色に変えていく。
 三好の白い肌に移った夕焼けが美しい。
「それなら佐久間さん、あなたは死なないでください。そして幸せになって」
 逆光で彼の姿が見えない。唯一見える口元だけが下弦の月のように歪んだ。
 それはどういうことだ────と問いただそうとして目を瞠った。きらきらと輝きながら目前の姿は光となり消えようとしていて、反射的に伸ばした手は何も掴めずに宙を掻く。
 美しい男は粒子となって霧散した。

 目を覚ますと眠る前と同じ木目の見える天井があり、ゆっくりと視線をずらすと煙草のヤニで汚れた壁が広がっている。ああ、そうか、と一人納得してしまったのは、戦時中の軍人としてあるまじきことだが、少し寝ぼけていたからだ。
 夢の余韻が残っていたせいで理解が遅れたが、ここは戦場で、今日も明日も国のために戦う。永遠に続くかと思えるほどの生活に終わりが来るのは、いつになるのだろう。
 この任務に就いてから夢など見ることもなかったが、久々に見たのは何かの予感かもしれない。窓から外を見ると既に空が白み始め、もうこれ以上眠ることは許されない。仮眠を取っていただけだから動くのには特に支障はなかった。
 それほど広くはない駐屯地の寝室のベッドは堅いが、布団で眠れるだけましだ。敵陣営により近い者たちは野営も逃れられないのだから、贅沢は言っていられなかった。
 部屋を出て部下が集まる広間へ向かうと、床で眠りに就いていた兵の数名は既に起きて、準備を終えている者もいた。
 大東亞文化協會を離れてから戦争のただ中に送られ、すぐに前線へと送られた佐久間はしぶとく生き延びている。多くの仲間が命を散らし、今も多くの守るべき人々が飢えて死んでいることだろう。そんな中で息をしているのは奇跡に近い。
 指揮官であるがゆえ後方にいることもあるのかもしれないが、戦場で絶対はなかった。
 広大な大地を踏みしめたと感じる余裕すらなく、足を進める。確定した過去は変えられなくても、未来はこの手で切り開くしかない。
 サイレンが鳴った。眠っていた者も一斉に起きて、すぐ傍にある武器を手にする。



 戦争の終結を宣言され、日本に戻るまでも時間がかかる。その後も多くのやるべきことが待っていた。
 死んだ者の家族に報せに行くのは佐久間の役目のひとつであったが、悲しむ家族が多いことは確かだ。お国のために散らした命ならばと心で泣き顔で笑う者は見ていればわかるが、こうして命を喪えば、国から恩給を受ける。恩給を目当てに兵士の死を望む家族も、哀しいことにこのご時世では存在した。
 どれだけ苦しかろうと金がなくては生きていけない。部下の死を伝えに行かねばならないことが、なによりも辛かった。国のために戦い、戦には負けたが充分役目を果たしたと。
 その合間を縫って、三好の所在も調べていた。極秘事項になっていたとはいえ戦前の話でしかなく、戦後の混乱している今ならば足跡を辿れるかもしれない。意気込んで、いくつかの資料を探していた時だ。
 図ったかのようなタイミングで大東亞文化教會への出向を命じられ、結城中佐にはこの行動すら計画のうちに入っていたのかもしれないと嘆息する。
 話の内容は三好に関することだろうか。
 久々に通す背広の袖は妙に懐かしく感じて一人微笑んでしまい、佐久間にとって大東亞文化協會で過ごした日々は決して長くなかったが、自身を大きく変えた場所となっていたのだと気付かされる。刈る暇のなかった髪はちょうどよく伸びていて、すぐに九段坂下の古い二階屋へ向かった。
 いつか見たときと変わらない古い扉にノックをすると、入れ、という渋い声が聞こえる。立て付けが悪いそこをゆっくりと開け、見えたのはやはりあの頃と変わらぬ男の影だ。
 逆光でよく見えないが椅子に座り、机に肘をついて手を組んでいるらしい。
「陸軍大尉佐久間、参りました」
 敬礼しようとしたが、今が背広姿であることを思い出してやめる。佐久間は戦場で武勲を立てたこともあり、大尉に昇進していた。
「よく来たな」
 生きて還ったことへの、彼なりの賛辞の言葉と思うことにしよう。僅かに笑みを浮かべているのは変わらない。
 参謀本部からの監視役として過ごした時期は決して長いものではなかったが、得たものは大きかった。
 ぴしりと背筋を伸ばして結城の言葉を待つと、組んでいた手を解いて肘掛けに乗せている。
「貴様、三好という男を憶えているな」
 三好。忘れるはずがない名であり、その男について調べていたことも魔王には手に取るように見えているはずだ。ひくりと表情がこわばったことに気付かぬ彼ではないし、ただならぬ関係であったことなどお見通しだ。他の訓練生の報告であったにしろ、彼自身が気付いたことであるにしろ。
 それがわかった上で聞くのならば、最早誤魔化す理由など何処にもない。
「は、憶えております」
「どうしているか、気になっているのだろう」
 やはりそのことか、と心中で舌打ちをする。見透かされているとわかっていながら目前に突きつけられるといい気はしない。
「は、その通りであります」
「奴は死んだ」
 唐突な訃報に一拍理解が遅れた。今も理解出来ているのかと問われれば、そうでもないのかもしれない。表面上は受け取れているが、少なくとも飲み込めてはいなかった。
 死んだ。
 ……死んだ。三好が。まさか、そんなはずがない。
 三好のことを調べられたくないがために吐く、結城中佐の嘘ではないかと真っ先に疑うのは仕方のないことだ。意味のある嘘は吐くだろうが、結城は無意味な嘘は吐かない。こと機関員については。
 嘘ならばそれでよし。しかし本当ならば。
 誰よりも近くで中佐を見ていた佐久間は、教え子に厳しい試練を与えようと、決して傷付けるためではなかったことをよく知っている。彼は彼なりのやり方で、教え子のことを大切にしていた。
 結城ならば佐久間が調べる先に、決して三好に辿り着けないよう偽の情報をしかけておくことも容易かろう。
 だから、わざわざ佐久間を呼び出してまで嘘を教える必要がないのだ。しかしそこまで読んであえて嘘を教えている場合もある、と考えるが結局は堂々巡りにしかならない。結城中佐が何手先まで読んでいるのかなど、所詮は凡人でしかない自身にはわからなかった。ならば言葉通り受け取るしかないのかもしれない。
 三好が、死んだ。
 もう一度脳内で噛み締めるように繰り返してみると、共に過ごした日々がよみがえってくる。
 最初の印象は嫌みのように構ってくる青年だった。腹を切らされそうになったこともあるし、本当に切ろうともしたが、死は避けるべきであると言われている以上彼は直前で止めるつもりでもいたはずだ。結果的にそれがヒントになり、マイクロフィルムの隠し場所を導き出せた。
 抱き締めた身体は温かく、触れた薄い唇は思いの外柔らかく、肌は上気するとピンクがかって美しい。色付いた肢体は欲を煽り、幾度も繋げた。甘い声で啼き、名前を呼ばれた日のことは忘れることはないだろう。その際に心も繋がったかと言えば、佐久間だけがそんな気分になっていただけで本当は違ったのかもしれない。それでも愛しいと、一瞬でも愛しさを憶えた相手だということは紛れもない事実だ。
 その男が、死んだ。
 何度繰り返してみても、実感には程遠い。長く姿を見ていなかったせいも、死に顔をこの目で見ていないせいもあるかもしれない。
 けれどどんな理由であれ、きっと彼が言うからには本当のことなのだろう。
「それは、どのような」
 聞いてどうする。何を聞く気でいるのか、自分でもわからない。けれど何かを話していなければ胸の奥から何かが溢れ出してしまいそうで、聞かずにはいられなかった。
 からからに乾いた口の中を、無理矢理唾液を嚥下し湿らす。
「どのような、最期だったのでしょうか」
 三好はスパイだ。死ぬな、殺すなと言われていたD機関において、死は最悪の選択だった。早すぎる死は寿命という選択肢を否応なく除外する。
 敵国に見つかって拷問によるものなのか、それとももっと別なのか。心臓だけがばくばくと強く脈打っていて、多くの部下の死に直面してきたというのに三好の死だけは覚悟していなかったらしい。死ぬはずがないと高を括っていたのかもしれない。
 優秀な男だったから、最悪の選択をするはずがないと。ヒトである以上佐久間と変わらぬ種族だというのに、化け物と呼んでいた、ただそれだけの理由で。
「列車事故だ」
 短く告げられたのはあまりにも呆気ない、ドラマにもなりやしない最期。同時に机の上に放り出された新聞紙の記事には、ひしゃげた列車の写真が載っている。
 日本人の美術商が一名亡くなったという、見知らぬ名前と見知った男の顔写真ががひとつ。
「……よく似た他人だということは」
「俺が確認をした。本人だ」


 佐久間が次に向かったのは結城に教えられたドイツの共同墓地だ。真木克彦という名で眠っているらしい彼は、不慮の事故死という本来ならば任務の失敗で終わる結末を、失敗では終わらせなかった。むしろ大きな成功のまま、彼は喪われた。
 墓石に掘られている名を指でなぞり、苦笑する。偽名のままで死んだひとを呼ぶことはない。
 そもそも三好という名もまた偽名でしかないが、名前なんて結局は単なる符号に過ぎないのだ。自身が知っている三好はたった一人を示すというだけで十分すぎる。
 いつか笑いながら話していた、整った顔立ちを思い出す。軍人であることもスパイであることも、所詮はただの肩書きだ。肩書きは服と同じで着飾るための要素に過ぎず、それらすべてが取り払われてしまえばただの人間になる。
 途中の花屋で購入した花束を手向け、手を合わせることなく小さな石をじっと見つめた。簡単な包装を施された真白色に統一された花束は、今まで誰一人として来なかったのであろう墓にはよく映える。
 こんな弔いも結局は自己満足にしかならず、墓参りに来ることもまた自己満足でしかないのだとわかっていながら止められなかったのは、とらわれている証拠だろう。彼はもう死んでいて、あの頃のように笑うこともないのに。しかし結城も墓地を教えればこの行動を起こしたであろうことはわかっていたはずだから、真木を装ったスパイを追っている者はもういないのかもしれない。
「三好」
 呼び慣れた名を静かに呟いてみたが、沈黙だけが返ってきた。死んだ者は戻ってこない。返事をすることはない。もう笑わない。悲しまない。二度と甘い声でこの名を呼ぶこともない。写真でしか、思い出の中でしか、会えない。
 二度と会えない。
「三好」
 名を呼ぶ度じわり、じわりとそれが染み渡り、胸が苦しくなる。呼吸が難しくなって、短く酸素を何度も吸った。苦しいだけじゃない。きっとこれが祈りだ。愛しさだ。嘘であって欲しいという望みは叫び出したくなるほどの激流に流されていく。
 彼は確かに生きていたのに、今は声を聞くことすら叶わない。彼は確かに、『生きていた』のに。
 佐久間さん。と、色気をはらんだ声に名前を呼ばれたような気がして、そんなはずがないと冷静な自分が何処かで見ている。
 真木克彦という知らぬ名で埋葬された男は、孤独であるがゆえに間違いなく自身の知る青年であると証明していた。
 ああ、あいつはもう生きてはいないのか。死んで、しまったのか。
 心中で呟いてみると漸く悲しみが悲しみとして溢れ出してきた。
 目の奥が熱くなり、佐久間は知らず自身の顔を押さえる。足の力が抜けて、その場に崩れ落ちてしまう。一度だけでいい、軍人でもスパイでもない一人の人間として、彼に会いたかった。
 膝をついた地面が冷たい。こんなにも冷たい場所に、貴様は眠っているのか。もう二度と醒まさない眠りに就いて、夢を見ることもなく、たった一人土に包まれているのか。

 涙を流す者もなく、祖国に還ることもなく、ただ形式的に埋葬された、かつて愛した男が今もこんなに愛おしい。

 涙が溢れて止まらない。愛して、いた。そして今も、愛している。
 哀れだとは思わない。可哀想だとも思えない。きっと任務を全うし、スパイとして死んだ男はそれで良かったのだと笑うだろう。
 愛国心だけではスパイは務まらないとは、このことを言ったのかもしれない。国のために情報を集め、死して尚国に還ることは出来なかった人。愛国心なんてものがあれば、死した時こそ国に還りたいと願うだろう。けれどそれすらくだらないものとして捨てた男は、最期の最期までスパイだった。
 涙で濡れた手を伸ばして、冷たい土に触れる。国のために喪われた命は国には還れず、靖国には行けたのだろうか。
 生きて、欲しかった。スパイになどならなければこんな形で死ぬことは無かったというのに、そんなことを言えば、無意味なたらればだと彼に笑われてしまいそうだ。
 スパイとしての死はあまりにも孤独で、人として寂しい。彼が大東亞文化教會に来なければ、D機関の機関員にならなければ、こんな形で喪われることはなかった。しかし同時に、佐久間と出会う事もなかったのだ。
 どちらかを取ればどちらかを手放さなければならなくて、決定づけられていた別れの結末はどう足掻いても悲しみに繋がっていく。
 たとえ出会ったその瞬間に三好の運命が決まったのだとしても、出会わなければ良かったなんて、思ったりしない。共に過ごした時間は短く儚い日々でしかなく、ほんの少し手を加えればあっという間に崩れてしまうような脆いものだとしても、確定した過去が幻に変わることはないのだから。
 忘れるなと、三好は言った。だから一生忘れずに、佐久間は生きていく。
「会いに来てくれたのか、俺に」
 夢を見たあの時には既に、彼は喪われていたのかもしれない。
 家族や友人、他にも彼にとって大切だった人は他にもいるはずなのに、最期の時に会いにきてくれたのなら、なんて愛おしい。なんて狂おしい。
 三好は最期の最期までスパイとしての自身を死なせることも殺すこともなく、生きることにとらわれもしなかった。だからこそ過去のすべてを捨て、残ったとても小さな一欠片に、佐久間があったのだろう。死ぬまで引き出されることのない記憶は、死んでからようやく引き出されて佐久間のもとに来た。
 ほぼ即死だったと聞いたが、痛みも苦しみもなく、あの世に往けたことを願う。一分一秒でも長く生きていて欲しかったが、それが叶わぬのなら、せめて苦しむことなく安らかに。
 国のためならば死ねると言った佐久間が生きて、死ぬなと言われていた三好が死んだ。残酷なほど優しい世界は悲しみを淘汰し、美しいだけの思い出へと勝手に変えていく。醜く歪んだこの世界で、この場所はひどく寂しい。
『僕は佐久間さんのことを、すぐに忘れてみせますよ』
 いつかの夢で見た言葉を思い出す。彼はきっと、本来ならば大切にとっておく多くの記憶をとるに足らないことのひとつとして、きれいに捨て去り、化け物のままで逝ったのだろう。
『だが、俺は忘れない』
 あの時の答えは間違っていなかったのだと確信出来る。
 三好は俺のことを忘れるけれど、だからこそ自分だけは三好のことを忘れない。他の誰もが忘れ、異国の地で喪われた男のことを思い出すこともなく、死したことすら知らずに生きていくのだとしても。三好が死んでも、世界は何も変わらないまま回り続けるから。
「忘れない」
 誓いを立てるように、喉の奥から声を絞り出した。
 化け物であることを課せられていない佐久間は、忘れないままでいい。憶えていることが出来る。これまでも、これからも、ずっと。死ぬまでとらわれることを、許されている。
「貴様のことは忘れない」
 忘れずに、抱き締めて生きていく。とらわれ、時には重荷に感じることもあるだろう。忘れてしまえたらと願うこともあるかもしれない。
 それでも死ぬまで忘れずに、誰よりも幸せになってやる。
 彼が生きるはずだった時間を背負うなんてことは出来ない。三好は三好であり、佐久間は佐久間でしかないから。
 他人の分まで生きるなんて、大層なことは言えない。結局は別人でしかないのだから。人は死ぬときは死ぬから。
「幸せになって、死ぬまで生き抜いてやるさ」
 どこかであの男が笑った声がした気がして、きっと全ては気のせいだったと笑みが漏れる。
 立ち上がり、雑に涙を拭うと佐久間はゆっくりとその場をあとにした。
 あとには白い花束だけが、小さな墓石の前で風に揺らされる。


***


 焼香を終え、白い花に囲まれ柩に眠る祖父の最期の顔を見つめた。
 その顔は、今にでも起きていつものように話しかけてくれるのではないか────そんなことを思ってしまうほど穏やかなものだ。一人息を吐き出して、もう二度と戻らない人を想う。
 時折頑固にもなるけれど真面目で、実直な男性だった。
 縁側に腰掛け、白い雲を見つめて目を細めている姿を見つけては、昔話をせがんだこともある。よく晴れた日の昼下がり、祖母が淹れてくれたお茶を一口飲んで空を見上げて、ため息を零していた。
 その隣を陣取ると地面に着かない足を振って、戦争が起きる前のことを聞いたのだ。
 軍にいた頃の話が殆どだったから、彼は教科書に載っているような軍人と変わらないのかとばかり思っていた。私は軍人の知り合いなんていなかったから余計に。
 けれどある時、不意に思い出したかのように零した誰かの名が、ひどく大切なもののようで、聞き返したのだ。
「……みよし」
 それは祖父にとっても予想外のようで、ただ驚いた顔をして、唇に手を当てていた。
 誰なのと聞けばすぐに我に返り、なんでもないと首を横に振られる。
「そういう名前の、嫌な奴がいた」
 言葉とは裏腹に微笑みはひどく幸せそうで、優しくて、彼にとっての大切な人なのだとすぐに気付いた。ミヨシ。みよし。三好。
 宝箱にしまっていた名前を取り出して、ひとつひとつ嬉しそうに話してくれる祖父の姿が好きだった。穏やかに鼓膜を震わせる、その声がとても好きだった。
 見たこともない戦争の辛さを想像し、今と昔の価値観の違いに驚いた。
「あの頃の天皇陛下は現人神と言われていたんだがな、鰯の頭を信じているのと同じだと言われたんだ」
 鰯の頭も信心から、だったろうか。そんなことわざを聞いたことがある。
 確かに俺は、教えられたことを考えもせず鵜呑みにしていた、と続けられ、まるで懐かしむように話し始めた。
 詳しいことは教えてはくれなかったけれど、軍の中でも少しだけ外れた場所にいた話はこの時が最初で最後だったように思う。それだけ祖父の中で秘められていた出来事だったのだろう。
「そこに居たのは長いとは言えない時間だった。それでも、そこで過ごした日々がなければ今の俺はない」
 断言して、また遠くを見つめる。そこでの生活を思い出しているのか、三好と呼んでいた人と過ごした過去を振り返っているのか。どちらにしても同じことだけれど、それは大切な瞬間だった。
「ああ、俺は、あいつのところへ……」
 行けるのだろうか。
 そう続けるつもりだったのかもしれない。途中でやめてしまった祖父を見上げれば、また此処ではない何処か遠くへ想いを馳せているようだ。
「幸せだったよ。俺の人生は、幸せに溢れていた。結婚して、子供が出来て、孫も産まれて」
 ミヨシは、何処にいる人なのだろう。男の人なのか、女の人なのかも知れないその人は、もう喪われているのかすらわからない。けれどきっと、祖父の手も届かない遠くへ行ってしまったのだと、なんとなく察せた。
 そっと頭を撫でてくれた大きな手が好きで、彼は確かに生きていたけれど、その温もりは喪われてしまった。今はもう氷のような冷たさが染み渡るだけだ。
 『嫌な奴』のところへ、祖父は今度こそ行けたのだろうか。
 そうだとしたのなら死はとても哀しいことだけれど、彼にとってはそれほど憂える事柄ではないのかもしれない。
 天国と呼ばれる場所が本当にあるのなら、二人の心がそこに行けたことを願う。
 もう二度と、哀しい別れが訪れないように。

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