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さて、我が愛しの兄上の話になるが、単純に言ってあの男は面白い。非常に私を愉しませてくれる。こんなにも愉しませてくれる人物は、後にも先にも彼以外いないかもしれないと思えるほどだ。
本来人の苦難の表情を愉しむのだが、あの兄は実にいい表情をしてくれる。その上決して折れない。めげずにただ真っ直ぐに目指すべき場所に辿り着くために、一歩一歩を踏みしめながら歩いている。
しかし当人に、成長しているという実感があるかは、正直なところ定かではない。
少し前、グレイとアフタヌーンティーを楽しんでいた時だったか、それとも別件で話していたときだったかは忘れてしまったが、あの男は聞いたそうだ。
『人は、成長すると思うか?』と。
たった三代で仮初といえど君主の座にまで成り上がった男が、『人は成長するものなのか』だと。あの兄にとって君主になったのは単なる幸運から命を拾い、そしてこのライネス・エルメロイ・アーチゾルテが偶々興味を持ち、声をかけたからだと。
そのどれかが欠けていれば手にしていなかった『今』ならば、それは成長と呼べないのではないかと。幸運の連鎖が今であり、その幸運がなければそれらを失うのであれば、成長と呼べるのかと。
遠く極東の地では運も実力のうちという言葉があるらしい。これが本当ならば、愛しの兄上の幸運は実力に入り、君主になるまでの驚くべき成長をしたことになる。
そして、たとえば第五次聖杯戦争ではアトラム・ガリアスタは召喚したサーヴァントの手で聖杯戦争が始まる前に殺されているし、バゼット・フラガ・マクレミッツも一命を取り留めたが瀕死の重傷を負った。
聖堂教会と魔術協会の双方に顔が効くことで、監督役は就任したらしいが、その監督役も死亡するような、なりふり構わぬ戦いだったようだ。それは第四次聖杯戦争も変わらないだろう。そんな中、無傷で生き残り時計塔に戻ってきた君主は、未だロード・エルメロイ二世以外にいない。
そしてエルメロイ教室を買い取った、ただのウェイバー・ベルベットが、三年もの間教室を維持し続けられたのは、果たして幸運だけによるものだろうか。
それほどまでに彼を追い立てる何かが、第四次聖杯戦争で彼が召喚したサーヴァントである征服王イスカンダルによって与えられたものならば、やはり人は成長することに帰結するのではないだろうか。
成長しようと藻掻き、追うべき背中を追うために足掻く姿を特等席で眺めるのは最高に楽しい。何より他の魔術師が匙を投げた問題をあの男の元に持って行った時の、嫌がる顔をしながらも諦めを宿している表情は、たとえあの親友を自称しているメルヴィン・ウェインズにすら与えられはしない。
これからも精々足掻く姿を見せてくれることを、心から願っているよ。親愛なるお兄様。
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