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メルヴィンが時計塔の教授に与えられる部屋――もっと言えば、ロード・エルメロイ二世に与えられた部屋を訪れたのは、昼下がりのことになる。講義に出ている師匠を待ちながら、箒掛けを終わらせ、靴を磨いていた時だ。
血色が良いとはお世辞にも言えない顔色だったけれど、彼にとってそれはいつものことであり、数える程度しか顔を合わせていないグレイにもわかるほど、日常的に吐血していた。幾度も訪れたはずなのに、まるで珍しいものでも見物するかのように、或いは愛でるかのように、几帳面に整頓された部屋をぐるりと一周する。
暇なときに師匠が使っているゲーム機を撫で、恐らく日本語で書かれた三文字のソフトのパッケージを眺めると、ぼうっと視線で追っていたグレイに彼が気付き、微笑んで吐血した。驚いて磨いていた靴を脇に置いて、ティッシュケースを持って駆け寄ると、胸ポケットから出したチーフで口を拭う。カーペットを敷いていない床を拭きながら見上げた。
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫。今日は調子がいいんだ。ほら、量もこんなに少ない」
鮮血を見せられても量の差などわかるはずもなく、吐血という事象自体が本来なら問題であるはずなのに、彼は別段気にした様子もなかった。血を拭ったチーフをポケットに押し込むと、周囲を見回している。あるのは整頓された本棚と、ベージュのソファ。それから窓際のさっきまで座っていた椅子と、靴と、それを磨くための道具だけだ。師匠を探しているのだろうか。
「あ、あの……師匠は今講義中で……」
立ち上がって外れかけたフードを前に戻しながら、俯いてしまう。まだ、自分の意見を述べるには勇気が足りなくて、その萎縮すら嫌悪を抱かれるかもしれない。故郷のように拝まれるよりましだけれど、大切な人の大切な人には嫌われたくなかった。けれど、彼は気にせずにいてくれる。
「ああ、いいんだ。特に予約してたわけでも用事があったわけでもないしね。いるなら様子を見たかっただけさ」
正直なところ、このメルヴィン・ウェインズという人間について、図りかねていた。人として外れているどころか、クズとしか例えようがないのに、時折窪んだ瞳から師匠に向けている眼差しが、ひどくやさしくて、愛おしくてしょうがないと、語っている。
魔術師として最大の家宝と言える、魔術刻印を預かっていると聞いたときもそうだった。魔眼蒐集列車で怪我を負わせた人物を、尋ねたときの口調。まるで自分だけが師匠を傷付けていいような言い分と、楽な生き方があるのに敢えて選ばない人を愛おしむような視線。そして指先。彼だけが師匠をウェイバーと呼び続ける理由もそう。ロード・エルメロイ二世ではなかった十九年間をも、大切にしている人。自分はエルメロイの名を継いでからの師匠しか知らないために、その名を返す日など考えたことがなかった。
「メルヴィンさんは、……その、師匠が関わった聖杯戦争のことを、ご存知です……よね」
「ああ、うん。知ってるよ。まさか聖杯戦争のために日本に行ったとは思わなかったけどねぇ」
「師匠はその時、何を見たのでしょうか」
詳しく話してくれたことはなかった。そして、本人に尋ねる勇気もまた、今のグレイにはなかった。
「どーせ下らないモンでも見て尻尾巻いて帰って来たんだろ!」
手元でアッドが叫んだが、無視する。下らないものなら、人生を変えてしまうことはないはずだ。
慣れた所作でベージュのソファに座り、机に両肘をつくと両手を口元で組む。そして寂しげな横顔が、微笑んだ。
「実はね、私にも詳しく話してくれたことがないんだ。彼はただ、何も出来なかったと。見ていることしか出来なかったと、そればかりなんだよ。可笑しいだろう? だって、サーヴァントを召喚したということは、イコール参加したと同じだ。その上生還した人物なんて、それだけでも金を貸すに値する話は腐るほどあるはずさ。それなのに、ウェイバーはかの王に会ったことや、臣下になったことを誇りにするどころか、まだそれに値しないと言うんだよ。仮の君主だとしても、たった一世代で君主にまで上り詰めた男が」
一体どんな英雄だったんだろうねぇ、と脱力して、何もない空間に視線を彷徨わせている。征服王とまで呼ばれた英雄イスカンダルに、師匠が会いたがっているのは知っていた。恐らくメルヴィンも知っているのだろう。第五次聖杯戦争に参加するため邁進していた姿を、自分は誰よりも近くで見ていた。
きっと、彼も見ていたのだろう。
だからこそ、魔眼蒐集列車のあと、第五次聖杯戦争を正式に辞退した師匠の様子を、今こうして見に来ている。落ち込んでいる姿を揶揄うつもりでいたかもしれないが、その本心は心配からくるものだ。
「メルヴィンさんは……少しわかりづらすぎると思います」
「うん?」
「あなたも師匠を大切にしているのに、伝わらないじゃないですか」
責めるような口調になっていたことに、自分でも驚いた。こんな強い口調で発せられるなんて、顔が変わってからは想像もしていなかったから。
けれど彼はやはり微笑んだまま、ゆっくりと立ち上がる。
「私がウェイバーをどう想っているかなんて、関係ないんだよ。君も知っているだろう? ウェイバーにはかの王しか見えていない。私が伝えたところで、結局視線のはしにも入らないことなんて、わかりきってるじゃないか。だったら、私は私が出来る範囲で、彼がどう動くのかを最大限楽しませてもらうだけさ」
「そんなの……拙は悲しいです」
「うん、その言葉だけで十分だ」
骨ばった手が肩に乗せられ、穏やかな口調で続けられる。彼はもう、諦めてしまっているのだ。どれだけ足掻こうと、手に入れられないものがあると。手を伸ばせば届くのに、決して自分のものにはならないことを。
師匠には幸せになってほしい。大切な人が、大切な人と幸せに暮らすことを願っている。けれど目の前の人は、その代わり大切な人を奪われるのを、傍観するしかないのだ。
「どうせ私はこんな身体だから、ウェイバーと肩を並べて戦うなんて出来ない。精々金を工面するくらいしか、ね。まあウェイバーも戦えるわけじゃないか。うん、だから、グレイさん」
確固たる意志を持って、色素の薄い瞳が穏やかに此方を向く。話をしている間、ずっと、この場にはいない師匠を見つめていた彼の瞳に、自分の姿が映された。
「ウェイバーのことを、宜しく頼むよ」
「……はい」
泣き出しそうになる。拙はどうしても、どんな状況に陥っても、師匠の幸せを取る。取ってしまう。だから、彼の幸せを願えない。それは師匠の幸せと相反するものだから。
袖の中の籠を握り締め、目蓋を強く瞑って涙を閉じ込めると、意思を汲み取って頷く。
「師匠のことは、拙が守ります」
「いい返事だ。さて、ウェイバーがいないんじゃ、長居してもしょうがないか。そろそろ出るよ」
「あっ、はい。え、と……」
「ああ、そうそう。今の話はウェイバーには内緒にしていてくれないかな。私が今日ここに来たことも含めて」
「……? わかりました」
隠しておく要素がどこにあったのか、わからないながらも受け入れる。断る理由も最初からなかった、というのもあるけれど。
「ありがとう、それじゃ」
扉を開け、細い背中がするりと向こう側へ消えていく。音を立てて扉が閉まっても、動けずにいた。
師匠がかの王に会う日を願い続ける限り、拙が師匠の幸せを願い続ける限り、彼の幸せは決して叶わない。多分、一生。
現代魔術科には、彼の幸せを願ってくれるひとは、一人もいないのかもしれない。あまりに師匠は愛されすぎていて。あまりに師匠が慕われすぎていて。今の師匠を作り上げたひとだから、それ以上の存在など居るはずがないと。
一体誰が、彼の幸せを願ってくれるのだろう。
師匠の願いを取れば、彼の願いを捨てなければならないなんて、あまりにも悲しいけれど、受け入れてしまっているのだろう。聖杯戦争より以前の師匠と、帰ってきた師匠を見ているからこそ。そしてそれから十年間を見ているからこそ。受け入れざるを得ないのだろう。
追う背中を真っすぐに見つめ、必死に近付こうとしている姿を間近で見ていたからこそ、自分が入る余地がないと悟ってしまっている。
――ごめんなさい。あなたの幸せを願えなくて。
誰もが幸せになれる世界があればいいのに、なんて、矛盾しているとわかっていても、願わずにはいられなかった。
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