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ウェイバーが風邪を引いたと知ったのは、本当にただの偶然だった。降霊科の妖精眼を持っていたらしいウィルズ一級講師が消えた件は聞いていたが、その原因がマーベリー工房で面白い事件が起きたせいだと言う。しかもそれに彼が関わったのならば聞かない手はないと現代魔術科に向かったら、途中で鉢合わせたミス・ライネスの言によると風邪で寝込んでいるらしい。
ウェイバーは昔から特に身体が弱いわけではなかったが、絶対に面白い話が聞ける上に弱った姿が見られるなんて一石二鳥だ。他に特に時計塔に用事はなかったためすぐさま運転手を呼び、ドルイド・ストリートの集合住宅へ向かう。嫌がらせに白いユリの花でも贈ってやろうかとも考えたけれど、墓所からロンドンに移住してきた内弟子に偶然会う可能性もあったため、やめておいた。これは嫌がらせに気付いて顔を顰められるだとか、負の感情を向けられないためではなく、墓地では見慣れているであろう花を見ても何の感慨も持たれずつまらないだけだと気付いたからだ。
無難にブドウとワインと少しばかりの嫌がらせにコンドームを手土産に選び、住居の目の前で一旦足を止める。
いつ見ても安っぽくてちんけな赤茶けた建物は、本当にここに住む者がいるのかと最初は疑ったほど寂れている。実際初めて来いと言われたときは騙されたと信じきったのだが、お粗末過ぎて殆ど用をなさない警報装置にひっかかったらしく玄関が空いたときはこれ以上ないほど驚いた。蔦だの雑草なんて庭師に任せてしまえばあっという間に終わるだろうと指摘したら、それはパンがなければクッキーを食べろと言うのと同義だと当たり前のことを返された。マリーアントワネットが実際に言ったか真偽のほどは知らないが、仮とはいえ君主が住まうに相応しい建物とは到底言えない。雨が降れば雨漏りがしそうだし、ハリケーンが起きたらすぐさま粉々になりそうで、冬は何もなくても絶対に私なら一日で凍え死ぬだろう。
螺旋階段で二階まで登って冷たいノブを回せば施錠されておらず、不用心さに呆れつつ遠慮なく部屋に入れば相変わらず散らかっていた。メイドでも雇って家事をさせるか、屋敷に住めばいいのにと毎度ながら思ってしまうのは仕方ないだろう。踵で押しつぶす感触と、ぐしゃ、と音が立つ。あ、今何か踏んだ。これは人が歩ける場所を探すのは難しいんじゃないか?
などと適当に考えながら部屋の主を探すと、内弟子と勘違いしたのか声が聞こえた方向へ向かう。寝所だけは小綺麗に纏まっているが、片付けているというより使う機会が恐ろしく少ないのだろう。
灰色のベッドに横たわり、分厚い掛け布団をかけられているが、上下する布団を見ていると息遣いはいつもより荒い。白いタオルが額に乗せられているぶん、頬の赤みが際立っていた。
「レディ、何か忘れ物でもしたのか……?」
「残念ながら私はレディじゃないけど、君がそう呼びたいなら受け入れてあげてもいいよ、ウェイバー」
「……………?」
熱で思考が上手く回らないのだろう。いつもならすぐに起き上がって何故此処にいるのかだの、何処で知ったかだの不機嫌そうに尋ねるのに、今はそんな余裕もないらしい。 タオルを気遣って深緑の瞳を此方に寄越すと、深い溜息を吐いた。
「……メルヴィンか」
「そうさ! 君の親友、メルヴィン・ウェインズだとも! 熱に魘されていると聞いてこんな面白そうなことはないと思ってね!」
「頼むから……静かにしてくれ……頭に響く……」
悪態を吐く元気もないとは、予想外だった。てっきり軽い熱と咳鼻水程度の症状だとばかり考えていたから、盛大にからかってやろうと色々と準備をしていたのに。ベッドの脇に一つだけ置いてある椅子に遠慮なく座らせてもらうと、荷物を足元に置いて彼の頬に手を添える。随分と熱いが、意外なことに彼の方から手のひらに押し付けてきて、心地よさそうに目を閉じた。
「お前の手、冷たい……」
「気持ちいいかい?」
「ああ……」
汗で顔に貼り付いた黒髪を避けてやり、簡単な治癒魔術をかけてもよかったが、弱った姿をもっと見たい気持ちが勝ってやめた。何よりこんなに可愛くて大人しいウェイバーなんて、滅多に見られるものじゃない。記憶に焼き付け、治ったあとに散々からかってやるほうが余程楽しい反応が見られるに違いない。
呼吸が穏やかになり、眠りに就いたのだろう。
マーベリー工房で何があったのかを聞きたかったが、今回はお預けだ。それよりいいものを見せてもらえたからよしとしよう。
もう少し居座りたかったが、きっとそろそろグレイさんも帰ってくるだろう。今日のところは会わずに退散したかったため、名残惜しくも腰を上げた、その時。ウェイバーの唇が僅かに動く。室内が静かでなければ掻き消されそうな程の、微かな声。
「ボクは……こんなことで……立ち止まってる場合じゃ、ないのに……」
ライダー。と。
此処にはいない、けれど彼を変化させた誰かに向かい弱音を吐いている。此処に、メルヴィン・ウェインズがいるというのに。心臓が締め付けられて、会ったこともない誰かが憎らしい。見舞いにも来ていないのに、夢の中にまで侵食するその『ライダー』とやらが、彼にとってそんなにも大切なのかと、問い詰めたくなる。
自分をこんな気持ちにさせた報いだと言い訳して、腰を曲げ夢の中にいるウェイバーの唇に、己のそれを重ねた。もっと深く味わおうとしたが、外の安い螺旋階段を急いで駆け上がる音がして、彼の内弟子が帰ってきたことを悟る。
唇を離すとそっと髪を撫で、寝室をあとにした。
「おやすみ、ウェイバー。よい夢を」
色々な何かを踏み潰しながら部屋を出ると、頭巾を被った人物とすれ違った。どうやら必死で此方に気付いた様子はないが、彼女がグレイさんなのだろう。
心臓に痛みを残したまま、運転手の待つ車に乗って屋敷へ向かう。
色とりどりの店たちも、うるさい程の静寂も、使用人たちの案ずる声も、痛みを癒してはくれない。
治療法はたったひとつだけ。
あの不機嫌な眼差しで、眉間に皺を寄せてこの名を呼んでくれる、あの声だけ。
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