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真っ白なベッド。真っ白な壁。個室ではあるが、およそ魔術師が扱うには不釣り合いなほどの幾多の機械と、断続的な電子音。そして生命線になる長い管は、全てウェイバーに繋がれていた。
寿命だと、心無い、ただの医師に伝えられて泣き崩れたのは彼の内弟子のグレイだ。
魔術協会の学長は二千年以上生きているというのに、たった八十やそこらしか生きていないウェイバーが寿命だなんて、考えたくもなかった。
艶のない長い髪をシーツに広げ、皺が増えた顔の大半を酸素マスクで覆われている。眉間に刻まれていた皺は、この眠りに就いてから薄くなるばかりで、既に消えている。閉ざされた瞳の向こう側で、彼は何を見ているのだろうか。
ハートレスを、魔術の根本を覆そうとした者を退けた男。
最悪の願望器たる大聖杯を解体した男。
その他いくつもの魔術による謎を解き、類まれなる教師の才で多くの生徒を世に送り出した男を、メルヴィンは他に知らない。例えどの魔術師に尋ねても、同じ答えが返ってくるだろう。
ロードの座をライネスに譲り、ただのウェイバー・ベルベットになっても、彼の名を呼ぶ者は現れなかった。
先代のロード・エルメロイ、師匠、教授、先生。ウェイバーはいつまで経ってもウェイバーでしかないというのに。
「ねぇウェイバー? まだエルメロイ家の魔術刻印は修復しきれていないし、君の借金も完済出来なかったけれど、これからどうするつもりだい?」
囁いて、彼の顔にかかった黒髪を避けてやる。答えは返らないことを知りつつも、話しかけずにはいられない。
魔術師として永くない身体と知らされてから、それでも面白いことを求めていた。後にも先にも、ウェイバー以上にメルヴィンを楽しませた者はいないだろう。自分のほうが先に逝くはずだったのに、魔術と医療による延命のお陰で、彼を看取ることになるなど、想像もしていなかった。自分の死で彼がどんな風に悲しんでくれるのかを考えるのも、一興であったのに。
ふと思いついて、壁に立て掛けてあった調律器のケースを開け、手に馴染んだ中身を取り出す。
折りたたみ椅子から立ち上がると、ベッドの傍らで相棒を肩に当てた。ひとたび弓を握り音を奏でれば、魔術師にとってそれはただの音色ではない。魔術回路を活性化させ、鼓膜ではなく全身でその効果を発揮する。最期に彼が聞く音が、自分が奏でる音であればと、願ってしまったのだ。もしも再び目覚めるならば、このメルヴィン・ウェインズを瞳に映してくれることを願ってしまったのだ。
彼の人生がかの王のためのものであるならば、最期くらいは自分に譲ってくれてもいいだろう?
そんな、俗世に染まった感情を抱いてしまうのは、可笑しいのだろうか。
一曲弾き終えるとゆっくりと息を吐き出す。これで、眠っている彼の貧弱な魔術回路も一時は活性化され、何かしらの変化を見せてくれるかもしれない。
淡い希望をいだきながら、華奢な折りたたみ椅子に再び腰を預ける。
まだ体温はある。心臓も動いている。人工的にではあるが、肺に酸素は送られている。
つう、と、先に彼の目尻から涙が伝ってシーツに落ちた。
長い睫毛が震え、うつろな瞳が何処かを見ている。
願いが通じたのか、と思わずにはいられない奇跡に、身を乗り出して顔を覗き込んだが、ウェイバーが見つめているのはメルヴィンではなかった。
軽い掛布団から震える手を伸ばし、思わず握ろうとした手の向こう側。
掠れた声で、誰もいないはずの場所へ向けて、酸素マスクでくぐもった声が言葉を紡ぐ。
その時、メルヴィンは心からの絶望を味わうことになった。
「やっと……会えた……ライダー」
本当に嬉しそうに、何より大切なものを、見つけたかのように。
調律器によって活性化された魔術回路は、確かに効果を発揮していた。目覚める可能性は低いと診断されても尚、活性化したお陰で彼を目覚めさせるに至った。
けれど彼の瞳は、メルヴィンを捉えていなかった。
きっと音色でさえもウェイバーには届かず、活性化された魔術回路が別の声を届けたのだ。
彼が背中を追っていた人。
彼の人生を変えた人。
伝説の中でしか生きていないというのに、聖杯戦争という儀式で彼の人生を一変させた人。
征服王イスカンダル。
震える手は力を失い、白い布団に落ちる。それを掬い上げる余裕は、メルヴィンにはない。
同時に断続的に続いていた電子音は、長音に変わった。
駆けつけた医師に離れるよう促され、状態を確認させている間も、メルヴィンは感じたことのない絶望に落とされたままだ。
征服王イスカンダルは、ウェイバー・ベルベットの人生を最期の最期まで蹂躙し、征服したのだ。
これではまるで自分が道化ではないか。
流れる涙は悲しみによるものなのか、他の感情から溢れ出たものなのか、メルヴィンですらわからない。
彼は終ぞ、一片たりともメルヴィンのものにはならなかったのだ。
どれだけ金があろうとも、ウェイバーの心は、他の者が付け入る隙もないほどかの王で満たされていた。
どれだけ甘い言葉をかけたとしても、どれだけ鋭い刃で彼を傷付けたとしても、圧倒的なまでの力で少年だった頃のウェイバーを導き、行く末すら定めてしまった。再会したあの時から――否、彼が日本へ発つと決めた時から、この運命は決まっていたのかもしれない。
酷い話だ。
結局メルヴィンは、知らず二人を会わせるために動いただけじゃないか。
最初から、最期まで。
心臓マッサージを施し、戻らない脈拍にウェイバーの瞳を確認した医師が腕時計を確認し、個室をぐるりと見回してメルヴィンに向き直る。
「失礼ですが、ご家族ですか?」
「……彼に家族は居ません」
「そうですか、失礼しました」
機械的に今日の日付と先程確認した時刻とともに、ご臨終です、と告げられる。
去っていく姿を見届けることも出来ず、しかし最期まで自分のものにならなかったウェイバーに、近付くことが恐ろしい。また、更なる絶望が待ち構えているのではないかと、そればかりが頭にこびり付いて離れない。
結局、メルヴィンは何も出来ずにその病室を去ったのだ。
数日後、ライネスがメルヴィンの屋敷に来たのは、病室に置きっぱなしにしていた調律器を届けるためだった。
歳を重ねても陶器人形のような白い肌は健在で、金糸を連想させる真っ直ぐな髪も衰えを知らない。強い焔の瞳は、当主になってからは更に強い印象を他に与えた。
「兄上の最期を看取ってくれたそうだね、メルヴィン・ウェインズ?」
彼女は、エルメロイじゃない彼のことを、未だに兄上と呼んでいた。その名が彼を縛ると知っていての所業だろうが。
「ああ、そうだね。偶然、立ち会うことになっただけのことさ」
「それならそれで、すぐにでも我が家に知らせてくれれば良かったものを。ウェインズ家からの借金を肩代わりしているのは、エルメロイ家なのだから」
「ああ、すっかり忘れていたよ。まあ、結局知ることになったのだから、別にいいじゃないか」
思ってもいない、表面だけの言葉。笑顔。
一人の魔術師を喪った世界は、人ひとり分の質量を失っただけで、変わらず動いている。人は笑い、怒り、時に悲しみ、涙を流す。
ウェイバーはもう、それさえ出来ないというのに。
ああ、違う。この世を去ったことで、彼は王の軍勢に加わり、ウェイバー・ベルベットとしてかの王の傍に仕えているのだろうか。どちらにしてもメルヴィンには笑い話にもならなかった。
「使いを寄越してくれるだけで良かったのに、レディ・ライネス自ら足を運んでくれるなんて、どういう風の吹き回しだい?」
「いや、大したことではないよ。ただ、兄上の葬儀にも出なかったと聞いて、身体の調子でも悪いのかと様子を案じていたのだが?」
確か葬儀はエルメロイ家が中心になって動いたのだったか。多くの生徒に慕われていた彼の葬列は、まれに見る人の多さだったのだと言う。
「私はあの時に別れを済ませていたからね。何か変わったことでもあったかい?」
「いいや、何も。ただ……そうだね。敢えて言うなら、兄上がとても幸せそうな顔をしていた、ということくらいじゃないか?」
伺う瞳は、何かを知っているんだろう、と探りを入れているだけだ。幸せそうな顔。ああ、そうだろうとも。最期に、会いたくても会えなかった主と再会し、恐らくその声を聞いて逝った彼は、幸せだっただろう。その瞬間に立ち会ったメルヴィンは、思い出したくなくても再生されてしまう己の脳が憎らしかった。
「私で遊ぶのはやめてほしいね」
「おや、気付かれてしまったかい?」
「勿論。私以外の誰かなら私も乗らせてもらうところだけど、私自身がそうされるのは好みじゃないんでね」
肩をすくめ、人でなし同士笑い合う。ここにウェイバーがいたなら、胃を痛めながらため息を吐いていただろう。
どうして此処に彼がいないのか、不思議なほどこの空間には多くが足りていなかった。
「これは、私の推測でしかないんだがね、メルヴィン」
「おや、珍しい。ウェイバーの真似かい?」
「まあ戯言として聞き流してくれてもかまわないさ」
テーブルの上に置いた調律器のケースを指でなぞり、笑みを浮かべながら焔の瞳が真っ直ぐに此方を覗く。
「兄上が亡くなった丁度少し前、入院していた何人かの魔術師の調子が、急に良くなったと聞いた」
中には退院するまでに回復した者もいたそうだよ、と付け加えられて、答えはもうわかっているだろうに、もったいぶるライネスから逸らし、客間の絵画に目をやった。金の額縁に飾られた、天使の絵。
ああ、いつだったか、剥離城アドラで天使に関する謎を解明した話を聞いたことがある。一般の娯楽とされる漫画や小説の探偵の多くは謎に巻き込まれるが、ウェイバーの場合は借金返済のため自ら謎に向かっていた。勿論すべてがそうだとは言わないけれど。
「窓辺にいた入院患者の多くは、唐突に聞こえてきた美しい音色に聞き惚れ、魔術師の全ては魔術回路が活性化したと」
「つまり私が、ウェイバーを治すため魔術回路を調律したと?」
「ふむ、まあそれも一度は考えたけれどね。兄上は寿命……つまりは老衰である限り、治すとか治さないで片付けられる状態ではなかったはずなんだよ」
「……それで?」
先を促せば、満足そうに笑っている。最初から聞かなければ良かったのかもしれない。或いは、体調が優れないのだと応対しなければ。後悔したところで後の祭りだが、ライネスは調律器のケースから指を離すと、人差し指を立てた。
「その時、我が愛しの兄上は、一時的な魔術回路の向上により一瞬でも意識を取り戻したのだと考えている」
「それは良いことなんじゃないかい?」
「……話は変わるが、我が愛しの兄上は、とても愛されていてね。特にその情が強い人物を私は知っているんだよ。それは執着にも近く、万人には到達しえない技術を持った人物は、願ったんじゃないか? 『彼が最期に見るものが、自分であれば』『彼が最期に聞くものが、自分が奏でる音、或いは声であれば』とね」
既に彼女によって解体されているであろう『謎』は、メルヴィンにとって謎でもなんでもない。愚かな一介の魔術師が名だたる英雄に挑んだ、一度限りの大勝負。そして無残にも魔術師は敗北したのだ。
「意識を取り戻した兄上は、傍で君が看ていたにも関わらず、他のものを見ていた。身体が続く限り追いかけ、追い求め続けた、征服王イスカンダルの姿を。そしてもしかしたら……声も聞いた」
「…………」
「最期に見たものがメルヴィン……君であるなら、あの場に大切な調律器を置き去りにすることなく、ただ純粋に、我が兄の死を悼んだんじゃないかい?」
確信を持った彼女の問いに、答える必要はない。
「話はそれだけかい?」
「ああ、それだけだよ。メルヴィン・ウェインズ」
せりあがってきた慣れた感覚に、常備してあるタオルを事前に口に当て、吐いた。口内に広がる鉄の味は、メルヴィンがまだ生きていることを示している。例えこの命が喪われたとしても、かの王に征服されているあの男は、決して自分のものにはならないのだけれど。
「参ったなあ、私は他人が堕落するさまを見るのは好きだけど、楽しまれる側になるつもりはないんだけどなあ」
わざとらしく手の甲を額に当て、天井を仰ぐ。こんな無様な姿は、ウェイバーにすら見せたことがない。ああ、悔しい。他人に無様な足掻きを知られたことよりも、自身が無様に足掻く日が来るなんて、想像もしていなかった。
「さて、用が済んだから、お暇させてもらおうか」
「ああ、レディ・ライネス。調律器をありがとう」
「いやいや私こそ、楽しい時間を過ごさせてもらったよ」
胸まである金糸の髪をなびかせながら、優雅にソファから立ち上がる。子供の頃からの性格はそのままに,肉体と精神を成熟させた女性は含みを含めた妖艶さで笑んだ。
その姿はかつてウェイバーが彼女に対して発した、悪魔のようだった。
後ろ姿を見送りながら、もう二度と、二人でウェイバーを困らせて楽しめない寂しさが心臓を包み込んだ。もう二度と会えないのなら、記憶ごと持って行ってくれれば良いのに。そうすれば、こんな気持ちにはならない。
予兆なく咳き込み、咄嗟に胸に手を当てたら床には鮮血が滴った。生まれてから何十年も繰り返してきたのに、呆れてくれる人も、困ってくれる人も、もういない。いなくなってしまった。破滅をかけて楽しませてくれることも、困った顔で喜ばせてくれることも、土に埋もれた人はもういない。手の届かない遠くへ行ってしまった。
今度は目の奥が熱くなり、鮮血とは違う透明な雫が落ちていく。
いつの間にか、ウェイバー・ベルベットを愛していた。
届くはずのない、行き場のない想いを抱えて、これからどう生きていけばいいのかわからない。こんな気持ちになるのなら、それこそオケアノスを探したくなった。
鮮血は涙で薄まり、それでもなお流れ続ける涙は誰のためのものなのだろう。涙が傷を癒すのなら、どうして今こんなにも心臓が苦しいのかと叫びたくなる。
メルヴィン・ウェインズは、生きていく上で大切なものを喪ったのだ。
それは決して自分の手に入らないものだったが、彼が死ぬまで、この記憶で苦しみながら生きることになるのだろう。
たとえその顔が、笑顔でいても。
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