[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
開け放した障子からは余すことなく陽光が入り、部屋全体を照らす。畳は張り替えたばかりのようで、若草色を保ったままだ。床の間に置いてある本体の刀は、命が下ればすぐにでも出陣出来るよう、準備が整えられている。
六畳ほどの部屋は手狭だが、殆ど眠るためだけにあてがわれたこともあり、さほど不便でもない。家具が少ないせいで見る者によっては殺風景にも映るだろう。
大倶利伽羅は座布団も敷かず、小さなローテーブルにもつかず、壁を背にして本を読んでいた。しん、と静まりかえった室内は、紙が擦れる音しかしない。近侍の仕事が終わり自由にしていいと言われ、彼は読書を選んだのだ。その時間を、今この時だけは誰に邪魔されることもないはずだった。
そよ風が頬を掠め、何処からか花の匂いを運ぶ。ほのかに甘い香りは強調することがないために、鬱陶しくはならない。深く息を吸い込んだのと、それは殆ど同時だった。
不意に、部屋全体が暗くなり集中が途切れる。太陽が雲に隠れたかと顔を上げると、視線を巡らせるまでもなかった。すぐ目の前の縁側に太郎太刀が座っている。どうやらこの男が座ったことで、部屋に差し込んでいた陽光が遮られたらしい。
長い黒髪は一つに結わえられているが、もみあげは左右に垂らされている。殆ど背を向けていることと、壁際の暗がりに座っているせいで、此方の存在には気付いていないようだ。
男は、何処か遠く。大倶利伽羅からは見えない角度の何かを、じっと見つめている。その陰が室内まで伸び、日陰へと変えたようだ。
向こう側で、太陽が沈もうとしている。
橙色の夕陽が色素の薄い男の横顔を、その色に染めていた。端正な顔立ちに、表情が色濃く表れるわけではない。だが、それさえ美しさを際立たせるよう、彩られていた。
庭池で鯉が跳ね、再び姿が見えなくなる。柔らかな陽光は緑陰を薄く作り、水面に映し出す。
ざあ、と。一度、強い風が吹いた。
彼の長い黒髪が靡いて前髪が浮き上がり、瞳を細めている。
葉が擦れる音と共に、木々の陰が動く。短刀たちがはしゃぐ声が運ばれてきて、彼等を眺めているのだと気付いた。
ゆるやかに、なだらかに。時間は穏やかに過ぎていく。
まるで、日毎繰り返される戦闘など、忘れてしまったかのように。
岩融の豪快な笑い声が響く。短刀の相手をしているらしい。
太郎太刀は、ふざけ合う者の仲間に加わりたいわけではない。そこにいる誰かを羨むわけでもない。ただ、その姿が微笑ましいだけだ。戯れる者を見ているだけで、充分すぎるほど満たされる時間。口角が僅かに上がったのを、見逃すはずはなかった。
だが微笑んだのは、そのせいだけではないらしい。次郎太刀の声が聞こえ、彼の弟も加わったことを悟る。
―――そうか。
この男は一振りの刀であり、そして一人の兄であることを思い出した。
飲酒がすぎた弟を窘める現場に出くわすこともあれば、兄と慕われてもいる。そのどちらも大倶利伽羅は通行人として目撃しただけで、自ら干渉したことはないが。
だからきっと、次郎太刀はこんなふうに向けられる視線の温かさを知っていて、それが太郎太刀なりの弟への愛情だと無意識に気付いている。
殊更それに敏感ではなくても、愚鈍なわけではない。
その証拠に太郎太刀に気付いた男の呼ぶ声が聞こえ、大きな身体をゆったりと動かして、連中の元へ去っていった。
視界はもう陰っていないが、夕焼けに染まる部屋は、読書をするには少し物足りない。この時間では暗くなるのも早いだろう。
本を閉じて立ち会がり、壁際の小さな本棚に片付ける。この分では、今日はもう出陣もないはずだ。
視界の端に、光忠の姿を見つけた。畑仕事を終えて自室へと戻る途中のようだが、夕餉の支度を言いつけられていたはずだ。長谷部が渡り廊下の階段を二、三段降りたのを見送った男が、再び厨のある方へと踵を返していた。
再び座り、立てた片膝を肘掛にして、目蓋を閉じる。
今も短刀達の楽しげな声は響いていた。
夜が訪れるまで、あと少し。それまでこの声を、聞いていよう。
≪ よすがの星に | | HOME | | さあ、さよならの時間だ ≫ |